呪咀と呪詛の違い
漢字を覚えるということは、 いずれにしても大変な苦行ですが、それは、いまヨーロッパで 思想的な先端をいく構造主義の学者たちや「 野蛮」の思考を追求する人類学者たちが羨望するように素晴らしく 重宝なものです。
ある漢字の正確な意味は分からなくとも、なんとなく意味がわかる、というのは確かに素晴らしいに違いありません。
だが、それでいて、実は、漢字というのは、相当に曲者なのです。
例えば、ここに、「呪咀」という言葉があります。一般には必ずしも馴染深い字ではありませんが、それでも、恐らくは「呪い」を意味するだろう、という位の見当は容易につきます。
そして大雑把にいえば、その見当は間違いではありません。
ところが、もし、その「呪い」という意味に、ヨーロッパ的な教養の匂いを漂わせたとすれば、それは明らかな誤りとなります。
神を冒涜し、社会に害毒を流す、魔女的なヨーロッパ流の呪いは、漢字では「呪詛」と書きます。
「呪」に問題はないのですが、「咀」と「詛」の違いに留意してください。
ところで、ここで漢字に強い人たちは、恐らく首をかしげるでしょう。
「じゅそ」という言葉は、習慣的に好みに応じて、あるいは「呪咀」と書き、あるいは「呪詛」と書かれてきたし、両者の間には、特に字義の違いはない、と考えられてきたからです。
その通りです。
漢字が、やはり曲者だと言ったのは、実はこのことに他なりません。
通常、言葉の意味は時代に応じて変化します。
例えば、共産主義と社会主義は、マルクスにおいては同義語でした。
が、いまでは全く異なったものと理解されております。
しかし、漢字が曲者だと言ったのは、そういう意味ではありません。
そこで、学があって几帳面な人は、辞書を引くでしょう。
一般的に言って、絶対に辞書を手にしない人は、怠慢の罪を犯しております。
しかし、あまり安易に字引を使う人は、逆に、洗脳の危険にさらされます。
かって、イギリスの歴史哲学者、 E・H・カーはオックスフォード中辞典を手に取って呟きましたーこれは大変に便利なものだが、しかし、ロックからバーランド・ラッセルに至る イギリス経験主義派の宣伝物ではないかーと。
つまり、「事実」とは「推論と全く異なる経験の所与」だと定義し、それを観察者の意識から独立したものと解釈して、「事実」を絶対化したオックスフォード中辞典に、カー先生は忿懣を漏らしたのです。
そういうわけで、辞書に対する警戒を怠るわけにはいきません。
そこで用心深く、几帳面な人たちに代わって、漢字の中辞典ー『辞海』を引いてみましょう。呪咀ー与詛祝同・宋史曰「呪咀君父大逆不道」すなわち呪咀とは「詛祝」に同じで、宋の史書に「君父を呪咀するのは大逆、で道にはずれる」と記述されている、とあります。
どうですか、やっぱり、用心してかかったのは賢明であったようです。
つまり、われわれは、儒学の説教を聞くために、辞書を開いたわけではなかったのですから。
では続けて、呪咀に同じだという「詛祝」を引いてみましょう。詛祝ー以言告神謂之祝、請神加殃謂之詛。
つまり、詛祝とはー神に言上するを「祝」と謂い、神に加害を要請することを詛と謂う、というわけです。
それゆえに、呪いを君父にかけるのが、大逆不道だと言ったのはよく分かります。
だが、それは儒教学派の宣伝以外のなにものでもありません。
たしかに、儒学の開祖である孔子は「怪力、乱神を語るな」、ときびしく戒めましたが、辞書の編纂者は、それを忘れることなく、守り通したのでしょう。
事実、同じ辞書の中でも、単独 の文字の解釈になると、ぐっと公正になります。呪ー通祝、後漢書王快伝、快呪曰、
「有何枉状可前求理乎?」
「呪」とは「祝」に通ずる。
後漢書の王快伝に、「なにか不条理があったら、前に進み出て、それを究明すべきか?」と王快が問いただした(呪曰)という記述があるーとあります。
つまり「呪」の一つの意味は、問い正すとか、せいぜい責め正す位のやんわりしたものです。
そしてもう一つの意味を、こんどは仏典を引用して辞書は次のように解説しています。呪者ー仏法未来漢地前、漢地有世間呪禁法、能発神験、除災患云々。
呪ーというのは、仏教の伝来以前に中国にあった「呪禁法」つまり 神の霊験を露わして災害や患いを除く呪術 のことで云々、というわけです。
つづけて、仏教の法師がその呪術を行ったと、説明は続きますが、要するに、ここでも「呪い」は呪術には違いないが、それは世の為、人のためのものであって、ヨーロッパ風のそれとは趣きが違います。
それは「咀」の定義によって、さらに明白となるでしょう。咀ー含而味之也。
神義子 『逆転の哲学 呪咀』 序章 壱 より
と、それは直載明瞭です。
口に含んで味を見ることを「咀」という、というわけです。
「詛」が陰翳に包まれた暗い呪いであるのに対して、「咀」とは、要するに、是非曲直、条不条理を吟味し、弁別することに他なりません。
字は似ていても義には、それこそ雲泥の差があります。
これで、呪咀と呪詛の違いは明らかになりました。呪咀が究極的には、やはり呪いであっても、それは本来、対象を選び、根拠を吟味します。
つまり、世の非曲や人の不条理を呪うことが、すなわち呪咀に他なりません。
では、なにを指して非曲といい、不正と決めつけ、不条理と断ずるか? そして、それを計る尺度は、一体なにで、どこにあるのか? となると問題は決して容易ではありません。
だが、呪咀は倫理学ではないのですから、このことは、一般に考えるほどには、困難ではないとも言えます。
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