おちもない話ですが・・・
すずめの戸締り見たときに感じたことです。
命がかりそめだとは知っています。 死は常に隣にあると分かっています。それでも私たちは願ってしまう。いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい。 猛き大大神よ! お頼み申します!
最後に祝詞を唱える前のこの言葉に、映画館で見た瞬間にひっかりました。
どこが?といわると
「命がかりそめだとは知っています。 死は常に隣にあると分かっています。」
なんです。
といっても、その違和感はまだしっかりと言語化できません。
ただ、なんとなく感じるのは
「知ってる」「わかってる」「死」という言葉が、なんとも神道らしくないという、感じです。
知っててなんなの?
「命がかりそめと知っている」は、ただ知っているだけです。
たとえば、
「命がかりそめです。死は常に隣にあります。その命を受け入れます。」
みたいな感じだと、たぶん違和感は感じなかったでしょう。
ただ、知ってることを宣言して、なにになるのと、私は思いました。
「命がかりそめ」を受け入れるということ
本来であれば、「命がかりそめ」受け入れざるを得ない。
ただ、自然の猛威の中に生きていることを、受け入れるしかない。
でも、頭で考えると、「命がかりそめ」を受け入れたくない。
だがしかし、頭では「命がかりそめ」を知っている。
受け入れるということは、できていない。
知ってるけど、受け入れてない。
そんな頭と心の、矛盾したニュアンスを感じます。
新海誠監督の狙いは?
ただ、新海誠監督は、全部分かったうえで、あの「知っている、わかっている」という言葉を選んだはずです。
いろんな言葉を吟味したうえで、を選んだのでしょう。
神道からみると命がはかないは当然である、と新海誠監督は知ってたはずです。さらには、ご本人は受け入れているとも思います。
だから、新海誠はあえて「知っている、わかっている」変えたのではないかと思います。
ここまで推測で、
さらにここからは、推測の推測にすぎませんが・・・
なぜ変えたかというと、映画を見る方が、特に遺族の方が
・「受け入れて」ない
・「受け入れ」られない
・「受け入れ」難い
ことに配慮して、
一番ハードルの低い「知ってる」「わかってる」に設定したのかもしれません。
もしも「受け入れます」では、「受け入れてない」人は、猛烈に抵抗感が生まれるでしょうから。
「知ってる」だと、「受け入れる必要はない、ただ知ってるだけ」なので、映画を見る人は安全だからです。
ご意見募集
とここまでは言語化してますが、それ以上は?です。
なにか思った方がいたら、教えてもらえると嬉しいです。
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