呪咀が消えてなくなる日

「呪」は元来「祝」に通じていただのです。

人間が集団動物である以上、人々はどうせ、そこで、何らかの役割を担わされます。

そして、もし人々がそれぞれに納得する役割を果しているとすれば、その集団に高低上下の区別があっても、別に不都合はないでしょう。

(中略)

公平な制度と公正なルールさえあれば、集団の中に、偉い人や偉くない人がいたり、美人や醜女がいたりしても、場合によっては、金持ちや貧乏人がいてでさえ、一向に差支えない筈です。

その上で、もし、偉い人が偉くない人に向って、先に頭を下げ、美人が醜女に会釈をし、金持ちが貧乏人に挨拶するようになれば、呪咀は、この世から消えてなくなります。

神義子 『逆転の哲学 呪咀』 序章 壱 より

呪咀がいつかなくなる日がくるのでしょうか。

「偉い人が偉くない人に向って、先に頭を下げ、美人が醜女に会釈をし、金持ちが貧乏人に挨拶する」そんな日が来るとは思えません。

ただ、考えてほしいのですが、学校の道徳では「みなに挨拶しなさい」と習います。

最近のコーチングでも、挨拶の重要性は語られています。

挨拶が大事ということは、すでに皆知っていることです。

知っているけど、できないのは、なぜでしょうか。

礼儀正しい社会

日本人は、礼儀正しいと言われています。

その礼儀正しい日本という国で、なぜパワハラが横行しているのでしょうか。

パワハラは減っていると、思うかもしれません。

しかし、外国人やLGBTQ+等の弱者へのハラスメントは、なお根深く残っています。

なぜ、そいういった弱者へのハラスメントがあるのでしょうか。この礼儀正しき日本で。

それは、日本の礼儀正しさが、偽物であるからです。

偽物の礼儀正しさ

ここで老子の言葉を読みましょう。

大道廃れて、仁義有り。
大いなる「道」が衰えたとき、仁愛と道義(の説)がおこった。

『老子 小川環樹訳注 中央公論社より

仁愛と道義を解いているのは、孔子です。
孔子の教えをまとめたものが、儒教です。

本当の道がなくなったとき、理解しやすいように、愛と置き換えても構いません。

本当の愛がなくなった時、愛が大事だとか礼儀が大事だとか、儒教が言い出すわけです。

ここで順番が逆転しているわけです。

道があるから愛があるから、自然と礼儀正しくなるのです。
道があるから愛があるから、自然と丁寧に振る舞うのです。

それを愛もないのに、我慢してでも、礼儀正しくしなさい。
と儒教は教えるわけです。

この偽物の礼儀正しさのおかげで、ハラスメントは多発しております。
いえ元々、ハラスメントは多発していたのですが、今ようやっと表に出てきただけなのです。
今まではただ隠されていただけです。

別の言い方をすれば、昭和の時代の根性論や精神論は、もうハラスメントになってしまったのです。
ところが当時は、根性論や精神論は、仁義礼智忠信孝悌の儒教の教えを根拠として、行われていました。

うみを出し切る

根性論と精神論は今や、ハラスメントとなりました。
政府や企業もハラスメントを止めるように、広報しております。

ただ残念なことに、頭ではわかっていても、心には根性論と精神論が根強く残っています。
特に昭和生まれの人たちは。

すると何が起こるかというと、人目のあるところではハラスメントはしませんが、人目のないところではハラスメントをしてしまいます。

ところがそれも、現代のスマホ文化によって全て録音録画され、おおっぴらにされることで隠せなくなってきました。

いい時代になったものです。

昔であれば、知らぬ存ぜぬで、抑え込んでいたでしょう。
もちろん今も、力関係で抑え込んでることは多々あります。

ただ、時代の流れとしては、どんどんバレてる時です。
膿が出ている時です。

なので、出し切っちゃいましょう。

呪咀で出し切る

この膿を出し切る時に大事なのが、呪咀です。

基本的に膿が出る時は、ハラスメントの告発という形で行われます。
それはハラスメントを受けた弱者の側からの、強者への告発や第三者への告発になります。

ここで少し問題があります。

ハラスメントを受けた側もまた、儒教に洗脳されてしまっているのです。

「やっぱり私にも悪いところがあったのか」
「こんな風に告発するなんて迷惑じゃないか」
「相手の気持ちを考えるとやっぱり良くないことなのかな」

などなどの、礼儀正しい思いが、頭の中をかける巡ります。

すると行動にもブレーキがかかるし、思考にもブレーキがかかります。
思い切った告発ができなくなってしまいます。

膿も出し切ることがありません。

だから遠慮することはありません

卑怯だの不埒なのという言葉も、つまりは、強者が弱者にかける呪文以外の、なにものでもないのです。躊躇の必要は、毛頭ありません。上手に猛烈に呪うことから、呪われることのない世界が、開けます。なぜなら、呪いは祝福だからです。ただしここにいう祝福とは、宗教的なそれではありません。

呪いが祝福となり、逆に言えば、祝福が呪いになる境地は宗教以前の人間の心情であり、従って呪咀は、宗教によって歪められた人間と宇宙との関わりを回復して、本然の姿に変えることだといえましょう。

神義子 『逆転の哲学 呪咀』 序章 壱 より 強調引用者

どうぞ思い切って呪咀してください。

ここで「思い切って」というのは、
儒教の思考を切ることです。

つまり

「こんなことしていいのかな」
「お世話になったし人として礼儀正しくないかな」
「間違ったことなんじゃないか」

などなどの、頭を巡る思考を、切るということです。

そして、あなたの心にある大事な感情を尊ぶことです。

「はじめに」にも書いたように。

あなたの命を尊ばない存在は、呪っても構いません。

あなたの心を尊ばない存在は、呪っても構いません。

あなたの魂を尊ばない存在は、呪っても構いません。

呪咀もエネルギーを使うので、どこまでやるかは人それぞれですが、やっていけないことではないです。

どうぞ思い切って呪ってください。

上手に猛烈に呪うことから、呪われることのない世界が、開けます。なぜなら、呪いは祝福だからです。」

「従って呪咀は、宗教によって歪められた人間と宇宙との関わりを回復して、本然の姿に変えることだといえましょう。」

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