『これがニーチェだ』永井均

閲覧注意!!!!

苦手、無理な人多いと思います。
心のバリアを張ってからお読みください。

なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」ーだれも公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な心理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。

世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ一度だけの生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。

だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分のその悦びの方に価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人は、まずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。

永井均 『これがニーチェだ』 p28-29 強調筆者

人によってはきつい言葉が多かったかもしれません。
失礼しました。

ニーチェは究極の答えを出しました。
がそれは、西洋哲学の中の話です。

西洋は何だかんだ言って、キリスト教が深く深く根付いています。
旧約聖書や新約聖書が骨の髄まで染み込んでおります。

罪とは何か、善悪とは、許しとは、神のすくいとはなにか
そういうことを中心に考えております。
そんなことばかりを考えております。

それゆえに悪にベクトルが増えると、神を呪詛するのです。

その西洋の道徳の究極としてニーチェがあるのです。

が、老子の哲学は、その外にあります。

もしも、西洋の考え方にどっぷり使ってる方がいましたら、出口への一つの道として、ニーチェは面白いかもしれません。

出口の先には、老子や易が待っております。
神へのドロドロとした呪い(呪詛)からも簡単に抜け出ることができます。

補足

西洋をディスってるわけではないので、そこだけよろしくお願いします。

呪咀をやる時に、西洋の考え方の中に居てはなかなかできません。出口の1つとしてニーチェを紹介しました。

ちなみに本自体はとても面白い本です。
「良い悪い」をいつも考えてる人には、目から鱗が落ちる箇所がたくさんあります。

面白いのが、ニーチェが考える理想の人間が、赤子であることです。
これは老子も同じこと言っています、「能く嬰児(えいじ)たらんか」と。

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