今回は宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」の解説をさせていただきます。
この映画の解説は、岡田斗司夫さんの仕事が、群を抜いております。
見たことない、読んだことないという方は、まずはそちらをお勧めします。
YouTubeでキーワード「岡田 風立ちぬ」検索すると、沢山の動画がでてきます。
動画の解説を本にまとめたものもあります。
この解説は、岡田斗司夫の解説のベース上にある、
もうちょっと別の切り口からの解説だと思ってください。
ただ、いきなり読み始めても、もちろん理解できるようには書いてます。
Contents
- 1 ※ネタバレ注意※
- 2 なぜ「風立ちぬ」の解説を書いたか
- 3 美しい映画の風立ちぬ
- 4 美しい表面、肌、皮膚
- 5 美しい2つの存在 ー菜穂子と飛行機ー
- 6 映画の中で、美しさを極める2つの存在
- 7 美しさの内側にあるもの ーすこしの易経の話ー
- 8 宮崎駿監督の映画にかける思い ー解説よりも大切なことー
- 9 剥がれてゆく菜穂子
- 10 剥がれてゆくゼロ戦
- 11 描かれない戦争、描かれない結核
- 12 「高く浄化」する力と学者の呪い
- 13 もう一つの内側 ーこころや感情ー
- 14 菜穂子の悲劇
- 15 二郎のモデルは宮崎駿
- 16 宮崎駿監督のメッセージ
- 17 風立ちぬの中の正義
- 18 宮崎駿監督の呪咀
- 19 呪咀の表現はどこにあるか?
- 20 10年間(10作品)力をつくして作りました
- 21 さらに大きな秘密
- 22 完全すぎた宮崎駿映画
- 23 宮崎駿の理想
- 24 さいごの景色
- 25 風で復る(もどる)
- 26 さいごに
※ネタバレ注意※
以下、ネタバレが大量にあります。
ネタバレをしたくない人は、ここで閉じてください。
なぜ「風立ちぬ」の解説を書いたか
この解説を書こうと思ったのは、なぜか
と言いますと
菜穂子はなんか悔しかったろうな
もしかしたら、呪いのような何かがあったのかもしれないな
という好奇心からです。
そうして風立ちぬのことを考えながら、易経を眺めていました。
易経には64個の卦(シンボル)があるんですけれども
その中に「美しい」を意味する卦があるんですね。
正確には、「山火賁(さんかひ):美しい飾り」です。
そして、その次に「剥がれる」を意味する「剝」という卦が続くんです。
つまり、賁(ひ)から剝(はく)へのストーリー
とても美しく綺麗に白く見えるものが、
表面のメッキがだんだん剥がれてくる。
中身の汚れやドロドロしたものが見えてきて、
恐ろしい。
易経には、そんなお話があるんですね。
美しい映画の風立ちぬ
そこで、振り返ってみると、
風立ちぬという映画のテーマは美しさなんですよね。
宮崎駿監督も「美しい映画を作りたい」と語っています。
主人公の二郎さんも、「キレイだ美しいよ」というセリフを連発します。
なので、この易の卦のストーリーから見ると
美しいの次の、「剥がれる」というテーマが
見えてくるのです。
風立ちぬの「剥がれる」テーマは
まー、隠されてるはいないですけど、
見えにくくは、されてます。
映画の表テーマとは別に、裏テーマがあるんじゃないかな
と思い、いろいろ考えてみました。
美しい表面、肌、皮膚
そうして考えてみると
映画の中で、枕頭鋲(ちんとうびょう)いうのが、出てくるんじゃないですか。
ゼロ戦の表面をツルツルにする話です。表面が平らな鋲のことです。
当時の最新の技術で、機体の表面を滑らかにして空気抵抗を減らそうという
堀越二郎のアイディアです。
二郎は、美しいツルツルの飛行機を作ります。
そして、菜穂子も美しいわけですね。
二郎は菜穂子が大好きで、
映画の中でもよくキスをしたりとかしてます。
菜穂子のほっぺをさすったりとか、どこかエッチな感じもします。
(子供向けの映画にしては、ちょっとまずくないかと問題になってましたけどね)
美しい2つの存在 ー菜穂子と飛行機ー
ここら辺の解説は、岡田斗司夫さんの解説にほとんど同じなので、
かぶってると思いますが、ご容赦願います。
どうか動画を見たり、本も読んでください。
後半では、ちょっと変わった目線での話も出てくるので、
そこは楽しみにしてもらっても構いません。
映画の中には2つ美しいものが出てきます。
菜穂子と飛行機です。
二郎さんは女の人が大好きです。
飛行機も大好きです。
なぜ大好きかというと、美しいからなんです。
二郎さんは美しいものを見ると、
目がそっちに行ってしまう、つまりチラ見する癖があります。
二郎さんの目線の先には、美しいものがあります。
映画の中で、美しさを極める2つの存在
そんな美しい存在たちの
さらなる極限の美しさが、
映画では2つ描写がされてます。
菜穂子
1つ目は、菜穂子と二郎の結婚式です。

花嫁衣装に身を包み
美しく化粧をして
そして夜空の月の光に照らされ
桜が舞い散る中
二郎さんの前に
暗闇の中から
光り輝いて現れます
その美しさは、
風立ちぬの中でも、最も美しいピークの瞬間です。
映画を見た人は、みんな心打たれるでしょう。
飛行機
そしてゼロ戦も美しく描かれます。
二郎さんのゼロ戦は、とても美しいのです。
一方でユンカース社というドイツメーカーの飛行機は、
ゴテゴテした飛行機として描かれます。
ゴテッとした大きな灰色の塊です。
二郎さんの飛行機は
1作目の飛行機の段階は、まだユンカースっぽさがあります。
鋲がデコボコが見える飛行機です。
正直、あまり綺麗とは言えないですね。
形もちょっと、ずんぐりむっくりしてます。
そして、その飛行機は試験飛行で墜落してしまいます。
当時の日本軍が二郎さんの勤める三菱に
軍用飛行機の製作を依頼るわけですね。
注文する前に、試作機を作って、お客様の軍隊に見てもらうわけです。
ご希望通りの飛行機を作りましたよ、
と飛行機をお披露目する会で、墜落してしまうのです。
さすがに二郎さんはちょっと凹んで、
会社から休めと言われたのか、
軽井沢に来るわけですね。
そこで菜穂子に出会うわけです。
菜穂子が子供の時に既に会ってるので、本当は再会ですね。
そして、菜穂子と出会って元気になり、
再び美しい飛行機を作ってくんです。
1作目は墜落した飛行機はちょっとゴテゴテなんですけども、
2作目のゼロ戦は(正確にはゼロ戦の雛形なんですけども)
表面がツルツルで
色も白っぽくて
形もスマートで
とても美しい飛行機なんです
その試作機が飛んでくところが、これまた美しく描かれています。

そのシーンもまた、映画の中のピークの一つですね。
空を飛ぶ美しい白い飛行機。
この映画には、2つの美しいものが描かれているわけです。
美しさの内側にあるもの ーすこしの易経の話ー
ここで最初に話した易経の話に、戻ります。
美しいものは、次の場面では剥がれていくんです。
「美しいものの表面が剥がれていく」
そんなストーリーが易経の中にあるんですね。
このストーリーを一つの神話として見ることができます。
神話なので、
「美しいものの、表面が剥がれていく
皮膚が剥がれていく」のは
人間の無意識にダイレクトに届くお話なんです。
美しいものは、壊れていきます。
その美しい白い皮膚は剥がれていきます。
ただし、それは映画「風立ちぬ」の中では
あまりはっきりとは描かれません。
描かれませんが・・・
想像してみて欲しいのです。
もしも映画のシーンがリアルだったらと。
日中戦争、太平洋戦争当時の日本に、あなたがいたらと。
想像してみてほしいです。
アニメを映画館やテレビで見てる分には、美しく見えると思います。
しかし、想像してみてください。
本当に目の前に結核のいる人がいたら。
そして本当に戦場にいたら。
空から爆弾が落ちてきたら。
その外側の美しさと、
美しさの内側にある
美しさの裏側にある
ドロドロや恐怖やグロテスクさは
いかほどでしょうか。
その表面が美しいがゆえに、ドロドロさが倍増しますよね。
宮崎駿監督は、あえて美しく描くことで
そのドロドロさを倍増させようとしています。
見てる人には美しい映画なんです。
映画の中に、戦争のシーンも出てはくるんですけど、一瞬なんですよね。
結核の苦しみのシーンも、ほとんど出てきません。
本当にね美しい映画なんですよ。
観ている分には。
宮崎駿監督の映画にかける思い ー解説よりも大切なことー
風立ちぬの映画を解説をしながらも、思うことがあります。
本当はね、
こんな解説なんてね、
いらないんです
特に本物の、
本物の映画を見る時はいらないんです
Don’t think. Feel.
考えるな。感じろ。
ブルース・リーの有名な言葉です
宮崎駿監督という映画監督は言っています
通俗作品は、軽薄であっても真情にあふれていなければならないと思う。入口は低く広くて、誰でも招き入れるが、出口は高く浄化されていなければならない。
『出発点』 宮崎駿 より
要はこういうことです。
本当の映画というものは、観る前と見た後で、観た人に変容が起こる必要がある。
その人が「高く浄化」されてなければならない。
そうでない映画は、時間の無駄だ。
浄化されるのは、なにでしょうか。
ここでは命や心や魂などかもしれません。
人間存在かもしれません。
宮崎なに駿監督の映画は大衆娯楽映画です。つまり通俗作品です。
ということは、宮崎駿の映画も「高く浄化」をするように
設計されております。
設計されてるはずです。
風立ちぬの設計
風立ちぬもまた、「高く浄化」をするように作られてます。
いまここで、私は「風立ちぬ」の解説をします。
解説はするんですけど、もっと大事なことがあります。
それが「高く浄化」することです。
宮崎駿監督の意図である、「高く浄化」に乗っかることです。
宮崎駿監督の「高く浄化」が必要という思いを、
映画を観たあなたに感じてもらいたいなと思います。
なんかくどくど、いってますけど、
映画や小説でもアニメでも
ただ見て、分析して、分かった気になるのは
もったいないということです。
本物の中にある
「高く浄化」される力を
受け取ってもらえたらな、と思います
その上で、ちょっとした面白い
スパイスみたいなものとして、
解説を見るといいんじゃないかなと思います。
なんで私のこの解説自体が、ただの飾りです。
山火賁の飾りに過ぎません。
この呪いと愛のサイトを
いろんな人に知ってもらいたいので
呪咀や東洋哲学の分析の一例として、
解説を行ってます。
剥がれてゆく菜穂子
ちょっと話を戻しますね
菜穂子は結核です。
そして、結婚はするのですけど
体の中はボロボロです
それでも、美しく、化粧をしております
「にいにいが思ってるより、菜穂子さんの病気はずっと重いのよ。
わたしこれでも医者の玉子だから、少しはわかるわ。
菜穂子さん、にいにいを安心させたくて、
毎朝お化粧して、頬紅をさしたりしてるのわかってるの!」

二郎の妹の加代の言葉です。
そして、美しいとこだけを見てもらいたかった菜穂子は、
美しさを保てなくなったタイミングで、
二郎の前から姿を消します。
ここら辺は岡田斗司夫の著書の中に、詳しく書いてあります。
もう涙なしには読めませんね。
「二郎のバカやろう」です。
二郎は薄情者です。
文字通り、二郎は感情が薄いもの、感情が無い者なのです。
剥がれてゆくゼロ戦
ゼロ戦も壊れて行きます。
美しく白く輝いていたゼロ戦は、
最後は丸焦げになり、地面に転がっております。
真っ白に輝いて、大空の中を風を切って飛んでいた飛行機は
今や地面の上で真っ黒に燃えて、バラバラに転がっております。
この辺りの美しくない描写は、風立ちぬの映画の中では、あまりされません。
ゼロ戦が壊れていく様子も最後の1~2分だけです。
菜穂子の結核の、ひどい症状の描写は1箇所も出てきません。
よくある戦争の映画のように
戦争の一番苦しいところ、ドロドロしたところを描いておりません。
映画「硫黄島への手紙」
漫画「はだしのゲン」
に見られるような生々しい描写は一瞬です。
あえて意図して、一瞬にしております。
描かれない戦争、描かれない結核
だからこそ宮崎駿監督は
宮崎駿監督は、この映画は反戦映画ではないよ、と明言しております。
もしも反戦映画にするのであれば
その戦争の悲惨さや苦しみを描くはずです
反戦映画は、みた人が戦争の悲惨さに共感することで、
戦争はもうやっちゃいけないんだな、と心に思うわけです。
どんな理由があっても戦争はダメだよっていう風に、
はだしのゲンを読むと、感じます。
それが著者の中沢啓治のメッセージなんです。
ところが、風立ちぬは、ほとんど描きません、戦争の悲惨さを。
つまり、風立ちぬは反戦映画じゃない、ということです。
映画で描かれていないことに、潜在意識へののメッセージがあります。
そして人は潜在意識から変容していきます。
宮崎駿監督のメッセージは何か。
宮崎駿監督の変容の対象は何だったのか。
それを、読み解いていこうと思います。
「高く浄化」する力と学者の呪い
ただ何度も繰り返すように、
わかることには意味はありません。
宮崎駿監督のメッセージを受け取って、潜在意識で感じて、
「高く浄化」していくのが、本来の映画の見方です。
分析して、分かった気になって、評論するのはやめましょう。
それは小賢しい二流の学者のすることです。
ここでちょっとだけ、その学者へのダメ出しを書いときます。
一応、当サイトは、呪いと愛のサイトとして、学問のための学問を批判しています。
だから、太公望が賢人の抹殺に「政治」を持ち出したのは見事な逆説であったし、同時に、それは政治における現実処理を重視した太公望が、満腔の皮肉をそこにこめたのかもしれない。
神義子 『逆転の哲学 呪咀』 本章 参 より
政治が周公旦やその信徒の孔子が考えたように、人々に教えを垂れることで果たされるものならば、最早、学問の効能を疑う余地は、まったく、どこにもないであろう。
(中略)
管仲に続いて、老子が穏やかな口調ながら、きびしくも学問無用論を説く。
しかし、さらに韓非子になると、学問は世を惑わし、学者は社会の害虫だ、とその弾劾は容赦なく烈しいものだ。従って、今度は儒者は全く政治のイロハも知らない、ということになる。
もう一つの内側 ーこころや感情ー
ここから、さらにもう1つの内側と外側の話をします。
体の表面が皮膚で、
内側の内臓がボロボロというのが、
一つ目の内と外です。
それとは、別にさらに、もう一つあります。
二つ目の内と外という見方は、
体と心という2つの切り口です。
物理的な世界と、
心の世界とも言えます。
その観点(心や感情)から言いますと、
菜穂子は美しい心を持っていました。
見た目や外側も綺麗で美しく、
心もまたとても美しく、
二郎さんが大好きでした。
そんな健気な子を見て、そこに共感をして、
私たちは映画で感動して泣くわけです。
しかしながら、ここで
美しいもの好きの人には
気持ちよくないし、汚いと思うかもしれませんが、
あえて、こんな問いも立てられると思います。
菜穂子は、二郎に恨みを持たなかったのだろうかな
菜穂子は、二郎を呪わなかったろうか
一度でも
呪いが言い過ぎであれば
恨めしい気持ちを持たなかったんだろうか
飛行機に対して嫉妬をしなかっただろうか
ひとりぼっちの
寂しさを
悲しみを
感じなかっただろうか
こんな問いがあります。
で、多分ですけど
これ映画には描かれてないんですけど
菜穂子は、それを感じていました
しっとや恨めしい気持ちを感じていたと思います。
ただ、それは、映画に描かれてないだけでなく
菜穂子自身も、それを否定していました
それは言い過ぎかな、悲しみまでは感じてましたね。
サナトリウムで手紙を読んだ後、空を見た時の悲しそうな顔
を思い起こしてください。
ただ、その悲しみの後に続いて、
「何で飛行機ばっかり
私をもっと大事にしてよ」
という思いが、自然と出るかもしれません。
菜穂子の悲劇
しかし、出た瞬間に、菜穂子は打ち消すわけです
この感情は美しくない。
綺麗でないから二郎さんに嫌われる。
だから、己の感情をなかったことにするわけです
その瞬間はそれでいいとしましょう・・・
では、そのたまった
ドロドロした
感情はどうなるのでしょうか
自然に消えてゆくものでしょうか。
忘れ去られるものでしょうか。
菜穂子の生前は、どうにもなりませんでした。
しかし、風立ちぬの映画のラストで、出て来ます。
最後、地獄のような場所で、
二郎は菜穂子に会います。
二郎から見る菜穂子は、
一瞬で風のように消えてしまい
二郎と菜穂子は肌を触れ合うこともなく、
菜穂子はただ遠くの方で手を振り、
風に消えてゆきます。
シャボン玉のように。
そして、
「ありがとう、ありがとう」と二郎は二度つぶやき
次の瞬間にけろっとして、
ワインを飲みに行くわけです、
悪魔のカプローニと。
ずっと待ってた人だったんですけど、
二郎さんは相対して会うこともなかったわけです。
キスもせずハグもせず、
抱き合うこともなく、触れ合うこともなく、
ただ遠くから励ましの言葉をかけてくれる。
「生きて、生きて」と。
まあ、そんな存在、にしかすぎなかったわけです。
生きてる間は、
あんなにペタペタしてたのにね
肌を触れあってたのにね。。。
10年間待ってたのにですよ。
というか、10年間、呪縛霊だったのに。
執着してたのに。
天国の菜穂子も思ったんじゃないですかね。
「あ、この男変わってない。。。」
だから
「生きて」
といって
執着をやめたのでしょう。
「言っても仕方ないから」
「そっちの世界でしばらく生きていて」
その意味では、
最初の絵コンテでは「きて」といって
また一緒になろうと、してたのが、誘うつもりが。
10年振りに、会った瞬間、目が覚めたのかもしれません。
そして、やっぱり一緒は難しいから「きて」から「生きて」に変えたのかもしれません。
「こっちにこないで、そっちで生きてね。ばいばい。」
二郎のモデルは宮崎駿
そして二郎は、宮崎駿監督でもあります。
映画人として行き、
仕事に没頭し、
家庭を何がしろにした、
父でもあります。
そこが二郎さんと同じです。
宮崎駿監督は、「そんな僕ですよ」と
映画で描いているわけでございます。
これがね、普通の人だと
客観視能力が、
できないわけですけど
宮崎駿監督は、
映画の中で、たくさんのキャラクターを登場させ
心を動かしさせ、本当に生きている命を与えている天才なので
自分自身も客観視できちゃうわけです。
宮崎駿が自分自身を客観視して、映画にとってみました。
という自画像映画なわけですね、風立ちぬは。
飛行機に対しても、矛盾を指摘されてます。
ジブリのプロデューサーの鈴木敏夫さんから。
戦争に反対しながら、でも飛行機が好き、
その矛盾を映画に描きなよと言われて、
描いた映画が風立ちぬなのです。
つまり宮崎駿監督は、
文字通り描き切ったわけです。
全て美しく描き切ったわけです。
美しくないところは、汚いとところは、全部隠しました。
菜穂子のドロドロした気持ち
菜穂子の体のボロボロさ
戦争の酷さ
宮崎駿監督自身の家庭のボロボロさ
それを全部隠して
ただ、うっすらとは垣間見れますが・・・
最後に「生きて」という美しいメッセージを
美しい女性に言わせました。
宮崎駿監督のメッセージ
この描き方に、宮崎駿監督のメッセージがあります。
みんな、どう?とっても美しい映画を撮ったよ。
キレイでしょう。キレイでしょう。キレイでしょう。
でも、本当はすごくグロテスクなんだよ。
描いてないけど、グロテスクなんだよ。
そのグロテスクな部分は、
潜在意識に届くようには作っときましたからね。
美しいよ
あなたたちは美しいのが好きだもんね
僕も美しいものが大好きなんだ
アニメは美しいね
今回はあえてドロドロを書かなかったよ
前はもう少し書いてたんだけどね
アニメが美しいとするなら
現実はどうなの
あなたの現実はどうなの
リアルな世界はどうなの
リアルな世界では
原発事故が起こったよ
辺野古で基地が作られてるよ。権力が暴力を振るってるよ。
僕の映画は見てくれるけど
僕がリアルにやっていることは
見ないんだね
(宮崎駿監督は原発反対や辺野古基地の反対を表明してます)
じゃあ、見てるあなたたちはどうなの
この映画の二郎はあなたなんですよ
綺麗なものが大好きなあなたです
現実の社会の問題に見向きもしないあなた
アニメばっか見てるオタクのあなたです
この映画の菜穂子はあなたなんですよ
心の中にドロドロや怒りや呪いがありながら
それを直視しないあなたです
直視しない代わりにこんなアニメを見て
満足してるあなたです
心の中にドロドロしたものもありながら
一時の安らぎを求めてるんですね
と問い詰めて
血をかけております
菜穂子が結核で吐いた血です
一番美しい軽井沢の山の上で、喀血した時の血です
そんなあなたは僕はふーんと思って見てます
最後の二郎が空を見るように
正直どうでもいいですみたいな感じです
宮崎駿監督のメッセージは、こんな感じだと思います
風立ちぬの中の正義
飛行機は美しい存在だった。
菜穂子も美しい存在だった。
二郎は美しいものが大好きで、でも正義には興味がなかった。
では、正義の存在は、風立ちぬの中で描かれないのでしょうか。
いえ、正義の存在は描かれております。
それは、二郎の妹の加代です。
妹の加代だけが、二郎の欺瞞を指摘します。
「薄情者」の一言で、うわっぺらの偽物であることが判明します。
さらに大きな話をすると、
加代は宮崎駿監督の映画の主人公たちの集合です。
これまでの宮崎駿監督の映画の主人公たちは、
みな正しき道を歩もうと努めています。
一方、風立ちぬの主人公は、正義に興味のない人です。
そして、ここに1つ
本心を隠した故にドロドロした、
変な映画ができました。
それが、風立ちぬです。
宮崎駿監督の呪咀
風立ちぬには、宮崎駿監督の呪咀が隠されています。
それはどんな呪咀か。
宮崎駿監督は、
『映画を見たものは「高く浄化」されなければならない』
と考えてました。
これまでの映画、ナウシカやラピュタやトトロなどで、
宮崎駿監督は「高く浄化」することを意識して
設計してして、映画を作っておりました。
「高く浄化」がどんな変容か、
映画によりさまざまで、ここでは詳しくは書きませんが
共通して言えるのは、一つの理想を、描いていたことです。
理想の社会に向けて、立ち上がる人を描いておりました。
そして宮崎駿監督自身も、そのような人であります。
原発には反対をしてます。
子供の頃に戦争を体験し、反戦の人です。
若い時は労働運動もやっておりました。
沖縄の辺野古の反対し、辺野古基金の共同代表にもなってます。
宮崎駿監督は、そのような理想を
映画の中に込めております。
もちろんダイレクトに、表現されてるかと言われると
微妙なところもあります。
例えば、「原発反対」とはっきりセリフとして言ってるわけではありません。
でも、エンターテイメントとしてのアニメの中に、
お金を払ってみる面白さの中に、
宮崎駿監督自身の理想の世界を
描いておりました。
それはまるで、中世の画家たちが
教会の仕事としてイエスキリストや聖母マリアを描きつつ、
お金を貰う仕事でありながら、芸術作品を描きました。
モーツァルトがバッハが、
教会やパトロンから仕事をもらいながら、
その中に神を賛美する曲を作っていきました。
宮崎駿監督も同じように、
この資本主義の世の中で、
日テレや電通や様々な団体から製作費をもらいつつ
でも、その中で
自身の理想とする世界や
自身の理想とする生き方
アニメの主人公を通じて描いていきました
そしてそれは
ダイレクトに言うなら
みんなナウシカのように生きようよ
シータのように生きようよ
サツキやメイのように生きようよ
というメッセージです
宮崎駿監督は、そのような理想を描いていたわけです。
そして、「高く浄化」するようなものを、いっぱい詰め込みました。
例えば、自分を犠牲にして王蟲の群れ中に飛び込んでいく
ナウシカの勇気ですよね
ラピュタでは物質文明に対する
アンチテーゼとして、普段はおっとりしてるシータが
力強く語ります
その語りは、
アニメの中のムスカに対する語り、
であると同時に、映画の視聴者に対する語りでもあります。
宮崎駿監督は全力を尽くしました。
命を削って作品を作りました。
しかしながら、
現実社会を見ると、
その理想が実現はしてません。
理想に近づくどころか、逆に、
理想から離れてしまった面もあるでしょう。
民主主義政治の面では。
原発はなし崩し的に再開されようとしています。
辺野古の基地は、地盤の問題があろうと、強行されます。
労働者の権利は奪われ、非正規契約に置き換わってます。
戦争に関しても、
集団的自衛権閣議決定を行いました。
法律を改正もせず、アメリカの戦争に協力できる仕組みを作りました。
武器の輸出も再開しようとしています。防衛費もGDP2%を目指してます。
宮崎駿監督は、
絶望したとまでは言わないですけど
ちょっとがっくりきたと思います。
アニメの力を、無邪気に信じてはいないですけど、
見た人が少しは「高く浄化」するはずである
という希望は持っていたと思います。
これでもしも、宮崎駿監督のアニメがヒットしなかったら、
「まあ仕方ないなあ」とも諦めがつくのでしょうが。
皮肉なことに、
宮崎駿監督のアニメは大ヒットしてます。
日本に住む多くの人が、人が見ています。
宮崎駿監督のぐち
映画を観た人たちが、宮崎駿監督の思った通りに
変容しなかったとしても、
いくばくか何らか現実を変えていく力にはなるはず。
全員が変わらないにしても、
ある程度の人は何かしら心を響き変わり、
そしてそれは社会を変えることにつながるはず。
例えば
戦争反対であったり
沖縄の辺野古の問題であったり
安保法制の問題であったり
原発の問題であったり
それらに対する、現実的な変化というものが
もっとあってもいいんじゃないか。
と宮崎駿監督は思ったのではないか。
推測になるんですが、私はそう感じました。
深い所にはとどいている(一言フォロー)
ここでちょっと一言フォローしておくと
私は宮崎駿監督の映画は
平和を大事にする
安全を大事にする
命を大事にする
これらの価値観(「高い浄化」)は、
その深いところでは、
観た人にとても響いていると思ってます。
ただ
現実の政治参加
投票に行ったりだとか
デモに行ったりだとか
陳情したりとか
ジャーナリズムに声をかけたりとか
そういう意味では、
力を持っていないなと思います。
それはいい悪いという意味ではなくてですね。
でも、繰り返しになりますが。
平和を大事にする
安全を大事にする
命を大事にする
その深いところでは
とても響いていると思ってます
憲法九条を守ろうという、いう力もちょっと弱まってますが、まだ根強く残ってます。
もしも、現実に日本が戦争になった時に、絶対戦争やだと思うんですよね。
もうちょっと基礎の層での下支えはされてると思います。
これちょっと個人的見解なので色々あると思いますが。
つまり、宮崎駿監督の呪咀は成功しているとも言えます。
個人的には。
宮崎駿監督のがっかり
ちょっと話を戻すと、こんな世の中を見て
宮崎駿監督は、がっくり来たわけですね。
耳を澄ませばに関するインタビューで言ってました。
「コンビニにたむろする若者がわからない。どこがいいの」
一番覚えてる話が緑の中で遊ぶこと喜びを伝えるために、
トトロを撮ったのに世の家庭にいるお母さんからは、
「トトロを見せると、子供が2時間テレビに集中してくれて、助かるわ」
と言ってるのを聞いて
宮崎駿監督は少し不満げだったそうです。
つまり、
「なんなんだよ、この社会は、ろくでもないものばかりでてきやがって・・・」
「しかも俺の映画を見てるのに。メッセージ受け取って、『高く浄化』できてないのかよ・・・」
と悪態はついたと思います。
でも、こっからが天才の違うところです。
そんな自分自身の呪咀や社会状況を含めて、丸ごと映画にしてしまいました。
「なんなんだよ、この社会は」っていう悪態が、
込められてるのが風立ちぬです。
呪咀の表現はどこにあるか?
映画の中の、二郎は宮崎駿監督です。
もしも二郎が宮崎駿監督なら、
では菜穂子は誰でしょうか。
一つは、宮崎駿監督の家庭という面もあります。
こちらは岡田斗司夫が本の中で解説してます。
でも、さらに、もう1つの観方ができます。
菜穂子は、宮崎駿監督の映画が大好きなファンたちなんです。
つまり、映画館で映画を見てる、
風立ちぬの映画を見てる「あなた」のことなんです。
ナウシカとかラピュタとか、たくさん見てくれてます。
映画館の中だけで映画を見て、
現実世界ではまた切り離して生きている。
そんな、映画の美しさだけを見ているような。
なかなか変容しない
なかなか「高く浄化」されない、
あなたへの皮肉として
風立ちぬは描かれてるのです
もちろんですけど、何回も言いますが、
それが「いいか悪いか」って話じゃないです。
冷静に「あ、そうなんだ」と思ってるだけです。
心静かに、現実を見ているだけです。
自分が魂を込めて
作った映画で
一流の俳優たちで
感情も込めて盛り上げて
そして見た人の人生観や世界観や社会観
人間観が変わるような
見た後と見た人でその人の何かが変わるような
映画を作ろうと
そのためにお金もいっぱいかけ
時間もかけて
作った映画を
通俗作品は、軽薄であっても真情にあふれていなければならないと思う。入口は低く広くて、誰でも招き入れるが、出口は高く浄化されていなければならない。
『出発点』 宮崎駿 より
そんな映画を・・・
ただ、その瞬間
面白かった
美しいね
キレイだね
と言ってみて
現実の反原発
戦争の問題
については
「怖いねでも、仕方ないよね」
というような生き方をしている人への
皮肉であり
呪咀であるのが
風立ちぬという映画なのです
だから最後
そういう人の象徴である菜穂子は
形のない
重さのない
風として描かれます。
風のように軽く扱われます。
とても美しく描かれて、
時間にして10秒ぐらいですね。
「ありがとう、ありがとう」と2回言って
そして消え去ります。
二郎は、ちらりと斜め上を見て
カプローニ(悪魔)とワインを飲みにいくわけです。
で、おしまい
そして、エンディングに荒井由実の「飛行機雲」が流れる
というね
なかなかこう
皮肉の聞いた終わり方だと思います
10年間(10作品)力をつくして作りました
10年間が制作の限度だと、映画の中でも言ってました。
あれも宮崎駿監督の、
10作を指しているのかなと思いますね。
風の谷のナウシカから始まり、風立ちぬに終わる作品群。
風で繋がって循環していく、10作なんでしょうかね。
10作を作って、結果は散々でしたよと
言ってるわけです。
「高く浄化」してくという意味では、
うまくいかなかったなと。
みんな表の美しさだけを追い求めて
消費されてしまっているなと。
じゃあもう開きなおろう
美しい映画撮って
本当に美しいだけを追い求めて撮ってあげるよ
戦争のひどさ覆い隠した、とても美しい映画を撮ってあげるよ
この風立ちぬは
戦争を見ないあなたたちへの、
合わせ鏡の映画です。
原発をなーなーにしてしまう
「まあいいか」ってやってしまう
実際に現地はひどいことになっており
リアルな現場を見たとしても忘れる
忘れる
忘れる
魔の山で忘れる
リアルを見ず、現実を観ず、汚いものを観ず、
忘れてしまうあなたたち向けに、作りました。
そんな美しいアニメを作っちゃいましたよ
このアニメ自体が魔の山なんです。
ちゃんと泣けるようにしてあります。
どうぞ泣いてください。
そして、変わらないんでしょうねあなたたちは。
「高く浄化」もせず、映画館の中で泣いてるだけ。
外の現実世界では、同じ状態なんでしょうね。
原発は、コストがかかるから仕方ないよねとか
戦争はいやだけど、あまり関係ないよねとか
やっぱ電気は必要だから仕方ないよね
とか
二郎みたいなことを言うんでしょうね
二郎のセリフ
「僕たちはただキレイな飛行機を作りたいだけ
戦争の商人じゃないのだ」
という意味で
実は二郎は、あなたたちなんです。
映画の視聴者は
二郎であり
菜穂子であります。
という意味も込められた
すごい映画なんです
もちろん何度も言いますけど
それがいいとか悪いとか言ってるわけじゃないです。
物語の表面上は、いいとか悪いとかっていうことも言ってますが、
それは表面です。
宮崎駿監督自身が
軍事オタクであり
と同時に反戦の人なんです
矛盾した人なんです
たしかに、その反戦の人としては良い悪いを言います。
戦争は良くないといいます。
でも、仕事をする時の監督としては
それら全体をまた俯瞰して、
映画を撮るわけです。
自身の矛盾を含めて、上から眺めて、客観視してから作るのです。
それが、風立ちぬなわけです。
ただ、私は矛盾を感じてるよ。
でも、君たちは矛盾さえ感じてないのでは。
という皮肉もあるかもしれませんね。
さらに大きな秘密
そしてこの風立ちぬには、
もうさらに大きな秘密が隠されています。
それは「風」であり
「生きねば」というメッセージです
このメッセージは、
風の谷のナウシカにつながります
つまり風立ちぬは
これを見終わったものは
また
ナウシカの世界に戻りなさい
もう一度、ナウシカを見てみてね
という宮崎駿監督からの
隠された
いやもう隠されてませんけどね 笑
メッセージなわけですよ。
その意味で言うと
理想だけを描いた世界、
(風立ちぬ以外の映画たち)の中に、
現実を描いた映画
視聴者が変わってくれないという現実を描いた
ダメダメ主人公の二郎を描いた
映画が続くわけです。
これで陰と陽は整っております。
陰と陽が整うと
一陰一陽をこれ道と謂う。これを継ぐものは善なり。これを成すものは性なり。
『易』 本田済 p535より
というように形がどんどん変わっていきます。
完全すぎた宮崎駿映画
それまでの完全な世界の宮崎駿監督の中に
完全すぎるがゆえに、なにかが足りなかった映画群でした。
そこに、一点の異物の風立ちぬができました。
だからこそ、
これが最後の映画だと宮崎駿監督は言ったわけです。
今までの映画が陽だとすると
ここに小さな陰(風立ちぬ)ができました。
1つの勾玉ですね。
でこれは太極をなすわけです
でも、今は片方の勾玉だけです
もう一つのセットの勾玉が必要です
そのもう一つのセット勾玉は何か
もう一つの勾玉は映画を見る、私たちです
宮崎駿監督の映画たちを、
私たちが見ることで
陰と陽が循環していくというのが
宮崎駿監督の設計です
今までは陽の映画だけだったので
そこに小さな陰を入れたわけですね
それを見るあなたは、
そのエネルギーを受け取って丸く回転していく。
映画に感情移入することで、
1つに一体化して太極になるわけです。
つまり10本の映画群を観ているうちに、自然と変容がおきるように「高く浄化」される
宮崎駿監督の魔法が発動するのです。
設計をわかっても、わかってなくても。
すいかにお塩を一振りかけると、
甘さがひきたつじゃないですか。
風立ちぬは塩みたいな映画なんです。
陰の風立ちぬのおかげで、他の陽の映画がまた引き立つのです。
宮崎駿の理想
各映画の陰と陽を簡単に整理してみます。
風の谷のナウシカ
熱い理想を語るナウシカ
美しいだけの二郎(とその対象である美しい菜穂子)
天空の城ラピュタ
自然にいきるシータ
現代科学の最先端にはまる二郎。ゴリアテ、ラピュタを作る二郎。
となりのトトロ
こどもの心あふれる、サツキとメイ
無感情の二郎と病みがちな菜穂子
魔女の宅急便
落ちこむこともあるけど元気なキキ
オタクな二郎
紅の豚
かっこつけるぶた
かっこつけ二郎
(この二人はにてるかも)
もののけ姫
カオスの自然、どろどろしてる自然
ただ美しい自然、美しい里山
千と千尋の神隠し
勇敢な千(千尋)
ぼけーっとしてる二郎
ハウルの動く城
戦争 火を消すハウル
美しい戦争 美しい飛行機をつくりたいだけの二郎
崖の上のポニョ
ほんものの母 ラストの女神
風のように消える 母でない 恋人でない 美しいだけの存在
さいごの景色
ラスト
二郎は空をぼんやりと眺めるわけです
二郎は何を見ているのでしょうか
菜穂子が消えた後のお空に何を見るのでしょうか
たぶん、そこに呪いをみます。
ただし、二郎には美しくみえてます。
二郎の視線の先にあるものです、から美しい物でしょう。
ただ、映画のスクリーンには写ってません。見せなかった。
1.菜穂子のかげ
おもかげ 菜穂子の呪
2.ナウシカへの風の入り口
みても今はいかない 巨神兵、ムスカ、ラピュタ、トトロ
3.あなた
リアル 現実の問題 オタクのように逃げずに
でも二郎は軽く一瞥して
ほとんど無関心に
さっさといってしまいます
ワインを飲みに
そのあとの草原には
ただ風が吹くのみです。
すべては風に吹かれて消えてゆきます。
菜穂子も。
ゼロ戦も。
だれもいない
なにもいない
美しい草原が続きます。
地獄みたいな景色です。
美しい「だけ」の景色です。
風で復る(もどる)
また易の話をすると
64卦の順番の中で、
賁(美しい飾り)
剝(剥がれる)
の次は復(もどる)です。
陰の世界から陽の世界へ戻ります。
一陽来復です。
もどるのです。
宮崎駿監督の連作も
風立ちぬで
風を通じて
ナウシカへ戻ります。
風の谷へ
ナウシカへ戻ります。
そこでは、美しいが、本来の美しさにもどります。
ナウシカは言ってくれます。
ゴツゴツの老人の手を好きと言ってくれます。
「じゃが、わしらの姫様は、この手を好きだと言うてくれる。働き者のきれいな手だと言うてくれましたわい」
風立ちぬのきれいの呪いは、ナウシカにより解かれます。
「本当にきれいなところだけをみせたかったののね」=
きれいなとこしかみたくない
の呪いが解かれます。
同時に、腐ったドロドロの見にくい世界が現れます。
巨神兵は皮膚のない、存在です。
ドロドロの中身が出てきます。
嫉妬と憎しみのクシャナも元気いっぱいです。

腐海の世界がうまれます。
命の混沌、カオスの世界が描かれます。
これが、宮崎駿監督の本心です。
美しい世界も本心なら。
戦争反対も本心です。
ここに矛盾は解消されます。
鈴木敏夫の指摘する矛盾はありません。
(軍事マニアなのに、反戦の人という矛盾)
正確に言うと矛盾は解消されたのではありません
いやそもそも矛盾はなかったのです
全体として対局から見ると
陰と陽があるだけです
それは両方ともありえるものなのです。
さいごに
風の谷のナウシカにはじまる、一連の作品と
風立ちぬは一対をなし
100年後、200年後も観られ続ける作品になるでしょう。
今後も皆に見られ、
歴史を変えていく映画になるでしょう。
ただ見るだけで、
「高く浄化」し変容を起こすマジックとしての映画
もちろん洗脳ではなく
あたまで考え
こころで感じ
気で観る映画です。
宮崎駿監督の世界は
循環する世界として終わりました。
まるで、
易の未済です。
『易経』六十四卦三百四十八爻はここに終わる。しかし、易の体系は万象の無限循環の象徴である。未済上九は、未完成の終わりに当たって、酒杯を含みながら、自分のあとに来るであろう完成の時を遥かに望んでいる。『易』の文章はここで終わるが、変易の原理は再び最初に戻って、また始まるのである。
『易』 本田済 朝日選書 p.519 より
そして、終わるはずだった映画群が、再開しました。
引退するはずだった宮崎駿監督が、なんと、新しい作品を取ってくれてます。
そして、まもなく公開です。
タイトルは「君たちはどう生きるか」
いやー、楽しみですね~
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