心の選択、自由に選ぶとはどういうことかを解説していきます。
引用
私たちの心は
自分の考えることを
自由に選択できる庭私たちは
『見え始めたぞ!自己発見メディテーション』 スジャタ著 渡辺明子訳 現代教養文庫 社会思想社 p76
とげのある雑草にも
美しく、やさしい花
にでもなれるのです
自由に選ぶということ
自由に選ぶとは何でしょうか?
目の前にコーヒーと紅茶があり、どっちが飲みたいと聞かれ、コーヒーと答えるとき
心の中では何が起こっているのでしょうか。
多くの選択を私たちは無意識にしています。
正確に言うと無意識に任せてます。
道路を渡る時に、車がいないタイミングを、ただ右と左向いて瞬間的に判断しています。
これは無意識にお任せしている状態です。
では無意識をコントロールしているのは何でしょうか?
それは言葉です。
言葉
私たちの心の指示は、言葉で行われております。
習慣化され、自動的に行われるようになると、無意識で行われます。
問題は、無意識の指示が、適切かどうかです。
それは、えてしてして不適切なのがあります。
その不適切な指示を、適切な指示すること、適切な言葉を使うことを、ブッダは正語と言いました。
もしも不適切な現象が起きてる場合は、適切な言葉を使うことで、正しい状態に戻ることはできます。
では適切な言葉は、どうやって使うのでしょうか?
私たちは言葉を自然に使っております。意識せずとも使ってます。
その言葉はほとんどコントロールされておりません。
そしてそのコントロールの中に、不適切な言葉が入っていることが多々あります。
だから私たちは迷い苦しむのです。
では正しい言葉を使えばいいのですが、それはどうやって使うのでしょうか。
ただ使えばいいというものではないのです。
なぜなら、それは意識の上で使っているだけだからです。
もちろんそれでも効果はあります。やらないよりはやった方がいいです。
でも無意識から溢れ出てくる、変な指示をコントロールしていく方法は、
なかなか学校では教えてくれません。
そしてその方法が、メディテーション(瞑想)なのです。
言葉で選ぶ
メディテーション中に出てくる、様々な思考や感情を、ただメモしていきます。
「私は○○を考えていた」
「私は○○を感じていた」
このメモは言語化なのです。
ここでメモすることで、その無意識領域に溜まった不適切な言語が、
見えるようになります。外に出てきます。
そしてそれを正す必要ありません。
ただメモをするだけで構いません。
そのあと、瞑想が終わった後に、
物を選ぶ時に適切な質問してあげると、
その質問が素直にあなたの無意識に届きます。
瞑想してないと、無意識領域に溜まった変なエネルギーが、素直の質問を受け付けてくれません。
例えば
やりたいことがあったとしても
「恥ずかしいからやめておこう」
というノイズのようなエネルギーが、
あなたの素直な心につながることを、妨害します。
その妨害を取り除いてくれるのが、メディテーションです。
そしてメディテーションを通じて、素直に心に問いかけることで、
あなたは自由に考えることができるようになります。
自由に感じることができるようになります。
呪咀の観点から言うと、儒教の呪いから逃れ、儒教の道徳から逃れて、
素直な心を表現して感じることができるようになるのです。
「素直に愛に生きることができる」と言うと、今風で分かりやすいかもしれませんね。
東洋哲学的には「道」に沿って生きることができる、と本当は言いたいところですが・・・
言葉の呪い
この言葉の呪いは結構根深く、食い込んでおります。
だから注意して取り除く必要があります。
丁寧に対応が必要です。
普段使っていることはもちろんのこと、
メディテーションを通じて無意識から湧き上がる言葉もまた
丁寧に観ていく必要があるのです。
そうすることで言葉の呪いから解放されます。
授業の呪いから解放されます。
要は、「いい人」をやめて「面白い人」「楽しい人」などになれるということです。
その第一歩が好きなことをすることです。
私たちは、これがいいのかどうかいつも考えて、ブレーキをかけてます。
我慢してます。
好き勝手やっていいのに、自ら枷をはめています。
その枷を取ってくれるのが、メディテーションです。
そして自由な選択ができるようになります。
補足
細かい補足ですけど、「完璧にできないと自由な選択ができない」みたいに捉えないでくださいね。
0か1で考えずに、ちょっとずつ変化していっている濃淡の中にいるだけなんです。
今のあなたの選択は、それはそれでOKなんです。
瞑想を1回やった後の選択は、それはそれでOKなんです。
完璧を求めないようにしてください。
それこそ儒教の「いい人」の罠にはまってますよ。
コメントを残す