易の読み方 ー儒教の読み方、道教の読み方ー

易とは何でしょうか?

多くの人は四書五経の一つだと答えるかもしれません。

それはそれで一つの答えですが、四書五経の一つだと捉えていると、見逃してしまうことがあります。

私に言わせれば、易は易です。
それ自体で、1つの世界をなしています。

何も儒教の中の、四書五経の1つに入れてもらわなくても構いません。
というよりも、儒教が易を都合よく利用したとも言えます。

どう利用したか?

儒教の中の、狭い世界観を、世俗の道徳に縛られた不自由な人間観を、
易を利用して大きく見せました。

実態は大きく見せただけで、易の本質である「変化」については、ないことにしてました。
(易は「変化の書」と呼ばれてます)

なぜなら、儒教の教えは、人間を徳目に固定するものだからです。管理する側からすると、便利なルールだからです。
父は父らしく、子は子らしく、妻は妻らしく、部下は部下らしくあれと説いてます。

しかしながら、易の本質は「変化」であります。
変化には、小さな変化も含みますし、「破壊と創造」のような大きな変化も含みます。
あらゆるものはの変化をしながら、なお本質的には「太極」として存在し続けているのです。(破壊では壊れないような、本質があるということです。)

天台密教について

例えていうと、天台宗が密教を、天台の一部として扱っているようなもんです。

空海がいうように、顕教と密教ではその教えに悟りに、時間的空間的な差があります。

天台は自らの教え(法華経)をしっかり軸にすえてればいいのに。何も別の流派の密教を取り込まなくてもいいのにね。

独立したものとして、それぞれの宗派は素晴らしいです。
悟りを開いた方も沢山いらっしゃいます。
その悟りは、密教の空海の悟りとも同じものだったでしょう。

ただ教えとして、密教そのうちに取り込み、1つのツールとして使用しようとする
その浅ましさは、空海が最澄に説教した通りです。

逆説的に言うと、そのような中途半端な天台宗だったからこそ、そこからたくさんの教えが生まれてたのかもしれません。
日蓮、法然、親鸞、道元・・・みんな天台宗で学んだ方たちです。

畑に例えると、天台宗は栄養たっぷりだったのかもしれません。
弟子の自由度も高かったのでしょう。

対する密教は、空海が大きすぎて、ほとんど名のあるお弟子さんは生まれませんでした。
名のあるのは覚鑁ぐらいですね。

易の話ふたたび

話を戻しまして、易の話です。

何が言いたいかと言いますと、今世の中で日本で手に入る易の訳は、儒教臭さに満ちてるということです。

易という元の本が素晴らしいので、儒教臭い解釈であっても、爽やかな高原のような味わいがあります。だから安心して読んで欲しいです。

ただ知っておいて欲しいのは、たまに出てくる儒教的な道徳は、本来はもっと自由で老子のような味わいを持っています。

おうひつの注、その訳が本来に姿です。

そして、それを一部取り入れながら、儒教風のスパイスを入れたものが、以降の易です。

孔子の臭いのする易

ところでこの訳書において、どの注によったがよいか。漢易は第一に完全な形で残ったものがないし、あまりに特殊である。王夫之は魅力があるが、個性が強烈なだけに、全篇の基調に採用するにはやや不安である。結局、王弼か程、朱かに帰着する。どちらも千年の長い期間にわたって、万人が易を読むたよりにして来た注である。その実績において、ともに安心してよい。そのうち王弼のは、スタイルが最も気が利いてるだけに、解釈として晦渋な場合がある。老子の臭いもやや気になる。

本田済 『易』 解説 21-22pより

「老子の臭いもやや気になる」とは、随分上からですよね。

「易」から言わせれば、「は、何、老子をディスってるの!孔子の臭いもかなり気になるわ!」が本音でしょう。

日本の中国古典の研究は、儒教色が強いので要注意です。何を注意するか?

気付かないうちに儒教色に染まることです。
すでに、研究者の方は染まっています。当たり前のように染まっています。

同じ人が、孔子と老子を翻訳しています。
たしかに、同じ中国語の古典だから、漢文としては翻訳できるでしょう。しかしながら、本来まったく別の思想を持つ本を、適切に翻訳できるものでしょうか?

ニーチェとヴィトゲンシュタインを、同じ人が日本語に翻訳してたら、「大丈夫か?」と思うでしょう。二人とも同じドイツ語の文章を書いてますが。
(よりわかりにくい例えで、すみません)

まったく対極にある、儒教と道教の本を、普通に翻訳しているのが日本の東洋哲学です。
そして、彼らは儒教と道教を同格に扱ってるのではなく、儒教を上に、道教を下に見ております。

その証拠となるのが、上にあげた引用です。「老子の臭い」と素直に表現されてるのが、本音丸出しです。
なぜ「老子の臭い」が気になるのか?それは、「孔子の臭い」を嗅いでばかりいるからです。

易の読み方

易は、儒教よりも先に存在した古典です。

儒教が、都合よく利用しています。そのため、儒教の徳目の臭いがかなりしますが、本来はもっと自由な本でした。もっと大きな本でした。

正確に言うと、現在形です。いまでも、もっと自由な本です。もっと大きな本です。

どうか儒教の読み方で、易を読まないでください。

易は手頃な値段で参考になる本が少ないので、なかなか難しいかもしれませんが、儒教のお説教くささを気にしつつ、読んでみてください。
儒教の色眼鏡があるんだろうと思って、解説を読んでみてください。

易の訳

易の訳の多くが「貞」を「正しい」の意味で使ってます。
「ただしきに○○」「○○は正しい」などなど文章が沢山あります。
そこが、一番読んでていて、儒教臭いところです。

一方、角川書店からも易の翻訳が出ています。翻訳は三浦先生ですが、こちらの翻訳は儒教色が少ないです。「貞」を「問う」「占問」の意味で訳しています。(「正しい」ではなく)
こちらの方が本来の意味だそうです。

いつか我流ですが、易の訳もやってみたいと思ってます。
儒教の色を減らし、できるだけ訓読み中心で翻訳してみたいです。

老子でも儒教でもなく、易を易として訳することができれば、フラットに読めると思います。

ただ、「フラット」のようなことは易に相談したら、「固定されたフラットなんかなく、すべては変化の流れにある」と言われそうですが・・・
「儒教っぽい易も易だし、老子っぽい易も易だし、その他の易も易だし、翻訳も自由だよ」

儒教に比重が偏っている易の翻訳を、逆サイドに重りをおけたらなと思ってます。
儒教に偏るのでもなく、道教に偏るのでもなく、易をただ、「易そのもの」として読めるような一助になれば幸いです。

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